東京大学のイメージの変化からみる社会の変容

この頃、「東京大学」という言葉をメディアでよく目にする。高学歴のインテリ風でクイズ番組で登場するシーンは数年前にも見受けられた。しかし、私が目にするのは東京大学という看板を背負い、その抱える鬱憤をギャップとしているイメージが大きい。いわば、東京大学のマイナス面を売りに出しているように捉えられる。どの大学にも自分の大学を不満に思う人はおり、メディアが取り上げているのも、その一部であるだろう。受けの良さとしては文武両道で国の将来を担う、有望な学生よりも、名門大学にいながら自らの不幸を嘆くような学生をとらえたりするほうがいいのであるのか。下のコラムは以上のようなことをまとめている記事だ。

東大に来る人は一番どうしようもない人(Spotlight)

東京大学は、近年世界の学術的な側面から見た水準、ランキングは低く見られがちであるが、日本の誇るべき一流大学である。反対に学生の視点から見て、学歴至上主義的な社会であったとはいえると私は思う。東京大学に行った人間は学問の専門性を問わず最上級であるというように、少なくとも今までの私は感じていた。上記の学生の話は、学生の間にすることが見つからず、とりあえず東京大学に入学したと語っている。メディアはその影にスポットを当てている。学歴が絶対であるという社会の変化が少し見られる。欧米での就職の安定は、専門性が認められ評価されている社会ができているからである。会社の部門ごとに応募ができ、それは大学の専門科目によって枠があるのだ。だからこそ、学生時代に何を身に着けたかが大事である。なかんずく、それにはなぜその大学のある専攻をとったのかということも理由として必要である。すでに海外ではダブルメジャー(複数専攻)、マイナー(副専攻)などと非常に質が高い。世界的な基準で現在求められているのは専門性であり、学歴ではない。一流大学であっても、その環境を十分に活かさなければもったいない。大学入学前後では、世界と日本との学術的な能力には差がないそうだ。しかし、在籍中に圧倒的に差がつく。授業の質、学生の勉学の雰囲気、教育システムだ。

日本よ、これが名門大学だ。

ますます専門性、自立性のある人物が必要とされる社会に近づいているのであると思う。

大学=遊んで終わり というような人物は求められないのである

 

 

 

 

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